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「原因自分論」③

〜 個人的な好みの話

前回に引き続き「原因自分論」に関するお話、第3回です。

前回は、
「『原因自分論』が目指すのは『自分の人生の主人公を自分にして、自分で選択していく』ことである」
というお話をさせて頂きました。

・人生は映画。自分の認識はカメラ。

自分の人生を映画に例えてみます。
自分という人物の一生を描く、ドキュメント映画。
その中には様々なドラマがありますが、当然その主人公は自分でなければなりません。

「そんなの、当たり前じゃないか」
「誰だって、自動的にそうなってるよ」

…本当にそうでしょうか?

以前の記事でお話ししたように、人は自分が認識した世界を生きています。
自分が認識しないものは、自分の世界には存在しないのと同じ。
だから、「認識」は映画にとってのカメラに当たります。

そのカメラが、もし「不幸な出来事」や「不幸の原因と思う何か」ばかりに向いていたらどうなるか、想像してみて下さい。

例えばスクリーンに、事故現場と事故の加害者となった人物ばかりが繰り返しずっと映し出されている、そんな映画。

この映画の主人公は一体誰なんでしょう?

これが、「自分の人生の主人公が自分でない」状態です。

「自分にカメラを向ける」ことが、自分を主人公にする

映画の中で、「主人公がちゃんと主人公らしくスクリーンに映し出される」ために、必ずしなければならないこと…
もうお解りですよね。

そう、「ちゃんとカメラを向けること」です。

今、自分はどうしたいのか。
何を嘆き、何を喜び、何を求めているのか。
そう言った「自分自身のこと」にカメラを向けます。

「『あれ』さえなければ」「『あの人が』こうしてくれれば」という様な「自分以外の何か」へのフォーカスではなく、「『自分が』どうしたいのか」にフォーカスすることで、スクリーンには自分が大きく映し出されることになるのです。

もちろん「主人公をより良く表現するため、一時的に」他のものにカメラを向けることは当然あるでしょう。
主人公の心情を表現するために美しい情景が、あるいは凄惨な光景が、または様々な脇役たちが画面の主役となることも確かにあります。

でも、あくまでも

「主人公は自分」
「もっともカメラを向けられるべきは自分である」

これを忘れずにカメラワークをコントロールして、「自分の人生の主人公を自分に」していけると、素敵ですね。

次回、最終回です。