〜 個人的な好みの話 〜
引き続き「原因自分論」に関するお話、今回が最終回です。
前回は「『自分の人生の主人公を自分にする』ために、自分にカメラを向けよう」というお話をさせて頂きました。
今回は、「原因自分論」が目指すもう一つの柱「自分で選択する」ことについてのお話です。
・「選択する自由がある」ことを認識する
物語の「主人公」として、「ちゃんとスクリーンに登場する」ことの他に、大事なことがもう一つ。
それは「自分で選択をする」ということです。
数々の局面で、主人公は選択を迫られます。
その選択や、選択に至るまでの過程が、映画のストーリーを印象付けますよね。
人の人生も選択の連続であり、それを一つ一つ自分で選択していくことが、主人公であるために重要なのです。
そして選択においては、時に「理不尽な強制イベント」があっても、実はそれでも「常に自由である」ことをご存知でしょうか?
「『理不尽な強制』と言っているのに、『自由』だと言う意味が解らない」
…ですよね。
ではここで、例えば何か外食することを考えてみて下さい。
A.日中、一人で。
B.深夜、一人で。
C.みんなでランチ。
D.人からご馳走される。
E.悪戯な妖精が「究極の選択」を迫ってくる。
など色々ありますね。
Aの場合、「行くお店も選ぶお料理も全て自分の自由」です。
Bの場合、「選べるお店は限られる」でしょうが、「その中で好きなところを自由に選ぶ」ことが出来ます。
Cの場合、「行くお店は、みんなの多数決や話題になっているところ」で決定されるかも知れません。でも「そのお店の中で、食べるものは自由に選ぶ」ことが出来ます。
Dの場合、お店も食べるものも決まっていたとして、それでも「ご馳走になる食事を楽しむ自由」があります。
例え「食事を共にしたくない相手」だったとしても、「食事そのもの」は別。
もし相手も食事そのものも最悪だったら…?
「明日は美味しいもの食べて元気出そう!」と、「明日食べたいものを考える自由」でもいいし、「自分では絶対このお店を使うのやめよう」と「自分の未来に活かす自由」でも良いでしょう。
Eの場合 ─ 現実に直接同じことはないでしょうが ─ 望まない「究極の選択」を迫られた時、「それでも、せめて自分が『よりマシ』と思うものを選ぶ自由」があります。
そして、この全ての状況において
「その状況を『良かった』と考える(=認識を調整する)自由」
があるのです。
この「選択する自由」は、どれだけ「理不尽な強制イベント」を以ってしても人から全て奪うことは出来ません。
だから、「人が自分で選択することを忘れてしまう=選択する自由を『認識しなくなる』」状態にならない限り、必ず選択の余地があるのです。
・自分を主人公に、自分で選択しよう
4回に渡ってお話ししてきた、「原因自分論」。
個人的な感覚としては「自分の思いや理由があって自分で選択して、自分が今ここに在る」という生き方を目指す、
「自由自在論」
とでも言いたいところです。
まぁネーミングの是非はともかく、目指すところは結局同じ。
「自分の人生の主人公を自分にして、自分で選択して生きる」
あなたのカメラは今、あなたにフォーカスしていますか?