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「受け取る力」について

このブログを読まれる様な方は、恐らく勉強熱心だったり、向上心や知識欲が豊富だったり、様々な話を聞くのが単に好きだったり、いずれにしても「様々な情報を受け取る機会が多い」方であろうと思います。

そして、その時々で「面白い話を聞いた」「勉強になった」などの気持ちを持たれることもあるでしょう。

では、その「面白い、勉強になった『素晴らしいお話』」の価値は一体どこで決まると思いますか?

「いや、そりゃ『素晴らしいお話』なんだから、『話そのもの』に価値があるんじゃない?」

…本当にそうでしょうか?

・情報の価値を決めるのは「受け手」

例えば、「美味しい夕食を作りたい」と思っている人にとって「食材の上手な下ごしらえの仕方」「火を通す温度や方法と、食材が固くなることの関係」などの話は価値があります。
でも「宇宙の未来を知りたい」人にとっては、それらの話は価値がありません。

あるいは「全人類にとって、絶対に役に立つ話」があったとして、「その言葉が解らない人」には価値がありません。

「『全人類にとって、絶対に役に立つ話』が、すべての人に理解できる言葉で発信されている」としても、「今遭難して困っている人」には価値がありません。

そう、情報の価値を決めるのは「受け手」なんです。

・情報を「上手くキャッチ出来る」のは、その人の力

「会話はキャッチボール」という言葉があります。
これは「お互いに言葉をやり取りする」ことを「双方向にボールを投げ合う」キャッチボールになぞらえたものですが、「発信された情報をキャッチする」場合は受け手が一方的にキャッチャーになります。

ピッチャーが、スタンドから見ても「すごい、めっちゃいい球!」と感じる様なボールを投げていても、キャッチャーが「早っ!怖っ!」と避けてしまったり、あるいはボールが見えてない、よそ見をしていたなどで捕り損ねたりしたら、意味はありません。

しかも、こちらからピッチャーに投げ方を指示出来ないのです。

ピッチャーたる発信者が好き勝手に投げるボールを、しっかりと体の前でキャッチしてボールの状態を確認し、ダメそうなボールは捨てて、使えそうなボールならちゃんと取っておく…

人の話を聞く、あるいは情報を仕入れるという作業はこの連続なのですから、どれだけキャッチャーの力量が必要か、お解り頂けるでしょう。

例え「キャッチボール」であったとしても、「一方的なキャッチャー」よりは楽、というだけで「受け取る力」は絶対に必要です。

つまり、あなたが「勉強になった」と感じた時、それは「そのお話が素晴らしい」こと自体は確かなのでしょうが、
「それを『受け取る力』があなたにあり、その力を十分に発揮した」
ということなのです。

その力は、「誰もが必ず十分に持っていて、いつでも十分に発揮できるもの」ではありません。
そして受け手にその力を発揮してもらえなかった時、どんなお話もその価値や意味を失います。

見方を変えれば、
「『なるほど、勉強になった』とあなたが感じた時、『あなたがそのお話に価値を与えた』のだ」
とも言えるのです。

ですから、「受け取る力」を発揮出来た時には、是非あなたご自身を褒めてあげて下さい。

このブログも「なるほど、勉強になった」と思って頂ける内容になっていれば嬉しいです。