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知る。続ける。 (「菩薩」理論<中>)

〜 人が菩薩になる 〜

前回は、「正しいことを知る」ということが「0と1の無限の差」を越えることであるというお話をしました。

今回は、それに気づかせて下さったご住職のお話を踏まえてもう少し掘り下げます。

・わかっちゃいるけどやめられない

懐かしの歌詞のようですが・・・
私は以前人生に大きく苦しみ、禅寺にしばらくご厄介になった経験があります。
毎朝毎晩お務めをしながらお釈迦様の教えを読み、色々と「正しいことを知った」のですが、苦しみに囚われる心をどうにも処理できない。
つまり「わかってはいるけど、全然上手く出来ない。苦しい」状態が続いていたのです。

そのため、ある時ご住職に尋ねました。

「仏の教えの特に重要なところが『色即是空』、つまり『こだわらない』心のあり方であることは解った。でも、どうしてもこだわってしまう。苦しい。これはどうしたら救われるのか」

すると、ご住職はこう言ったのです。

「そこが味わいどころやなぁ・・・」

・「菩薩」という存在

私は食い下がりました。
「『味わいどころ』という意味が解らない」
「人は苦しみを味わうべきなのか」
「苦しみから救われるために仏の教えがあるのではないのか?」
と。
私の訴えに対するご住職の答えはこうでした。

「そうやない。お前が正しいことを知らんかったら、お前は努力がでけん。お前が正しいことを知っとったら、お前は努力がでける」
「お前が正しいことを知って、努力をしとるのに、それが上手くいかんかった時、『ああ自分はまだまだ修行が足らんなぁ』と、益々修行に励む、
その姿が菩薩やないか
「自らが菩薩になる、そこが人生の味わいどころやないか」

ここで、ちょっと宗教的な表現になりますが、みなさんは「菩薩」と聞いたらどんなイメージですか?

「『菩薩の様な人』とか・・・つまり、なんかすごく悟った、めちゃくちゃ優しくて心が広い人?」でしょうか?
あるいは、
「地蔵『菩薩』とか、観音『菩薩』とか・・・ん?つまり仏様っていうこと?」でしょうか。

実は、仏教的な分類では「菩薩」は「悟りを開いていないし、『仏』ではない」のです。

本当の「仏」は、「釈迦『如来』」や「阿弥陀『如来』」の様に「如来」と呼ばれる方々。
悟りを開き、六道輪廻を「解脱」して、極楽浄土に座すのが「如来」なのです。

では、「菩薩」は?

実は、「菩薩」は「いずれ如来となるべく仏道に励み続けている方々」なのです。
仏道に励み続け、徳を積んだ結果として様々な御力をお持ちになり、その御力を以て私たち衆生を御救い下さる。
そして衆生を救われたことがまた徳として積まれ、結果いずれ如来となられる・・・そういう構造になっています。

つまり、私たちが常々ありがたいと拝んでいる方々の中には、「ただ励み続けているだけの方」がいるということなのです。

前回の4グループの分類で言えば、グループ③。
ここに所属している人は、つまり既に「菩薩」だったのです!