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「鏡」理論(①-中)

〜 不安を少なくする方法 〜

前回は、不安と「心の鏡」の不安定さの関係についてお話ししました。
今回は、不安を少なくする方法のお話です。

・なくそうとするとなくならない

なぜ、「不安をなくす方法」と書かずに「少なくする方法」なのか。
その答えが、この小見出しです。

前回お話ししたように、不安は「不確定なもの」に対して感じます。
ということは、「不安をなくす」という意識で何らかの方法を試した場合、

試したその瞬間に、不安に思っている未来や人の心などが全て確定的に見えるようになる

という結果が必要になります。
…絶対に無理、ということがわかりますよね。

さらに「不安をなくす」ことが目的になってしまうと、0以外の全てがアウト。
100の不安が半分になっていても。
極端に言えば、1しかなくても。
「ある」以上は、「なくなっていない」という評価になり、なくなっていなければ、不安が生まれる。
つまり、永遠に不安が尽きない状態になってしまうのです。

いえ、たとえ「0になった」としても、また不安が生じてしまったら「消えたはずなのに、『元に戻った』。どうして?全部無駄だったの?」と、不安だけでなく失望にまでおそわれます。

人が、基本的には未来も、人の心も見ることの出来ない存在である以上、

不安はあっていい。

いいんです。
仕方ないんです。
なくそうとすればするほど、なくならないんです。
不安を捕まえて捨てようとしても、不安に触れれば不安になるだけなんです。

ただ「少なくする」ことなら出来るし、少なくする方法が身につけばそれはつまり「不安をかなりコントロール出来る」ことになるので、不安に振り回されてしまうことはさらに少なくなります。

・ヒントは座禅にあった

不安を少なくする…というと何となく漠然としているようです。でも、「不安は『心の鏡』の不安定さである」とわかっていれば、つまり不安を少なくするというのは

「心の鏡の動きを少なくして安定させること」

だとおわかりいただけるでしょう。

でも具体的に、どうやって心の鏡の動きを少なくするのでしょうか?
あれこれと湧いてしまう不安も、頭にこびりついて離れない不安も…本当に少なく出来るのでしょうか?

そのヒントはなんと、座禅にあったのです。

「座禅って、『座って心を無にする』ってアレ?」
「座禅で修行をすれば不安を少なく出来るって…お坊さんになる訳でもないし」

とお感じでしょうか?

実は、座禅は「座って心を無に『する』」のではありません。
「ただ座ることに『なる』。結果として、心は無に『なる』」
というのです。

だから、「ただただ寝れば臥禅(がぜん)。ただ立てば立禅(りつぜん)。ただ飯を食えば食禅(じきぜん)。生きることの全てが禅」と教わりました。
最初は意味がわからなかったのですが、今では良くわかります。

このあたりは、実はスポーツとも関係が深かったりして面白いのですが、今はちょっとおいておきます。

ただ、とにかく「心を無にする」のではないというなら、座禅では一体何をしているのでしょう?

・「雑念が入る余地がない」状態なら、雑念はないという発想

座禅を組む際、基本の作法として座り方や呼吸のことなどを教わりますが、もう一つ最も大切なことを教わります。

「数息観(すそくかん)」という、自分の呼吸を数える方法です。
数え方はやりやすいもので構わないのですが、自分は秒数で数えていました。

何秒吸って、何秒止めて、何秒吐く…
これをひたすら、ただ数え続けます。

ただ数えるだけの単純作業ですが、息が決して止まらないし、最初のうちは無理なく苦しくなく呼吸できるリズムが定まらないし、

息を数えることで「頭がいっぱい」になる

のです。
すると、当然ながら「雑念の入る隙間がない」。

時に降ってわくように雑念が入り込んで来ても、
「違う、息を数えるんだ。息を」
と、そちらに意識を集中することがしやすいので、雑念を頭から追い出しやすくなるのです。

そして次第に、無意識に数えられるくらいに慣れていって、最終的には「あまりに慣れた単純作業なので」息を数えることすら忘れて、

ただ、座ることになっていた

これが、座禅の完成形なんです。
これがわかってくると、お寺で小僧さんがひたすら庭を掃くのも、終わらない本堂の掃除を続けるのも、「生きることの全ては禅」という和尚の教えに行き着くことに気づくのですが…
ちょっと話が逸れました。

次回は、この数息観の考え方で実際の不安を少なくするコツについてお話しします。

…もちろん、座禅をすること自体もとても効果があります。
ご興味のある方は、お休み前など5分程度で良いので座禅を組んでみると、睡眠の質がグッと上がったりしますよ。